(1)子守歌的なるもの
若年期から私には人生の根本命題だと信じてきた、ひとつの信念があった。それは、この世で一番好きな相手と結ばれて、子供を産み育て、背かれて年老いていくのが最上の人生だ、というものだった。そしてこれには、もしそれがかなえられなければ、他にどんな良いものを恵まれても人生そのものが無意味であり、生命曲線からの逸脱だという副命題が付随していた。長い年月、深く愛し合った夫婦は、互いの風貌や話し方や仕草までが似てくるという。私が若い頃から願っていたのは、まさしくそういう人生だった。そしてそれがもう不可能な年齢に私の人生は達している。何度となく味わった悲恋のあとで失意と孤独に打ちのめされているとき、傍らにいつも中島みゆきが佇んでくれていたような気がする。持って行き場のない悲� ��や絶望を癒し、慰撫する力が彼女の作品にはある。第2章で私はそれをオーストリアの精神医学者ゲルトルート・シュビングの言葉を借りて、「母性的なるもの(die Mutterlichkeit)」と呼んだ。それは危機や不幸に陥った存在に対し、捨て身の献身や察知や抱擁で相手を包み込む深い愛情である。これは中島みゆきの初期の作品からその底流に一貫して流れているものであるが、近年ますますその傾向を強めているように思われる。「わたしの子供になりなさい」や「心守歌」といった作品はアルバムのタイトルになるほどで、その典型である。それらは大人に向けた子守歌といってもいいだろう。
随分昔になるが佐々木幹朗は、中原中也の作品の中に「子守歌的なるもの」を見出し、中也の作品を日本の昔話に特徴的に現れる「太母」(グレートマザー)の伝承として喝破したことがある(『中原中也』筑摩書房・近代日本詩人選16)。佐々木は中也の「悲しき朝」や「盲目の秋」、「サーカス」などの諸作品にそれを認め、日本近代詩の歴史の中での中也の独自性を位置づけたが、今その伝統は中島みゆきに引き継がれているのではないだろうか。中原中也の作品に「子守歌」の伝承を読み込むのは詩の読解の相当な修練を要するが、中島みゆきの作品の中なら、誰でも容易にそれを認めることができるだろう。
涙を見せてはいけないと教えられたのね
そんなことない そんなことない そばに誰がいるのか次第
男には女より泣きたいことが多いから
あなたが泣くときは わたしは空を見よう
あなたが泣きやめば ふたりで空を見よう
もう愛だとか恋だとかむずかしくいわないで
わたしの子供になりなさい
もう愛だとか恋だとかむずかしくいわないで
わたしの子供になりなさい
―――「わたしの子供になりなさい」
彼女は不特定多数の対象にこんな歌を唄っているのではなく、不幸の只中にある一人一人に向けて唄っているのだ。だがこんな歌を唄う中島みゆき自身は、果たして本当に幸せなのであろうか。無数の人々に勇気と慰藉を与えるよりは、たった一人の相手と結ばれることの方が重いのではないだろうか。愛する相手と結ばれなかったときに、彼女はどういう風に自分を慰め、言い聞かせてきたのだろうか。
ジャスミン もう帰りましょう もとの1人に すべて諦めて
ジャスミン もう帰りましょう もとの1人に すべて諦めて
人が1人で生まれてくることは 1人きりで生きていくためなのよ
1人きりで生まれて来たのだから1人でいるのが当たり前なのよ
2人でなければ半人前だと 責める人も世の中にはいるけれど
ジャスミンもう帰りましょう もとの1人に すべて諦めて
ジャスミンもう帰りましょう もとの1人に すべて諦めて
1人で働いて自分を養う一生
THAT'S ALL それで終わり けっこうなことじゃないの
誰とも関わらなければ 誰も傷つけない
THE END それで終わり とても正しいことじゃないの
ジャスミンもう帰りましょう 1人暮らしのあのアパートまで
ジャスミンもう帰りましょう 1人暮らしのあのアパートまで
―――「一人で生まれて来たのだから」
言われてみればそのとおりである。数年前大病を患った。抑鬱性神経症という病いで(本当は<病気>ではないのだが)、突然胃がセメントやコンクリートのように硬化して食事が喉を通らなくなり、文章を書いたり活字を読んだりすることが全く出来なくなった。たえず原因不明の疲労に苦しめられ、およそ1年半ほど生と死の淵を彷徨った。私の生涯で最大の危機だったかもしれない。全治してみると、自分が一皮剥けたような気がする。この世に自分ほど哀れで惨めな人間はいないと、30年間思い続けてきた。だが病気をして以来、不思議と不遇感に責め苛まれることはなくなった。中島みゆきのこの作品は、全面的に共感できるし、ひどく私を勇気づけてくれる。
彼女の実人生の場合はどうだったのだろう。彼女の二冊目の小説集『泣かないで・女歌』の中に「ウィズアウト・ベイビー」という作品がある。彼女の最初の二冊の小説集にはどの作品にも「中島みゆき」という名前の主人公が登場して、彼女の実人生の一断面を垣間見させる。コンサート・ツアーの移動日に、ある街のホテルに投泊した「みゆき」のもとへ、彼女の学生時代の友人、フミ子から電話が入る。フミ子は学生時代、突然にインドに出かけ、そこで知り合った英国人と結婚している。ホテルのロビーまで迎えに来てくれたその旦那の案内で、「みゆき」は長屋の裏手にある彼女の自宅に行き、何年ぶりかの再会をする。フミ子には既に混血の赤ん坊がいる。「みゆき」はしばしの間フミ子一家の歓待を受ける。そこで描写され� ��フミ子の日常は、いささか所帯疲れしたものであり、おしめの取り替えやおっぱいをやったりする子育てに追われている。別れた後、フミ子の旦那にホテルまで送ってもらう間、主人公の「みゆき」は次のような想念にとらわれる。
漂ってくる乳くさい匂いは、こういう暮らしよりも仕事の方を選び取ってきたあたし にとっては、チクリと心に染みる。
遠い、手の届かない世界の幸福を示してくる。
――でも幸福は比較のしようがない。
あたしの暮らしにだって、なかなか捨てたもんではない幸福はある。
フミちゃんは、こっちの幸福の方を選び取った。
それだけのことだ。(傍点は引用者)
こう思う彼女にフミ子は、別れ際にこう言ったのだ。
「でも女にとっては。
いちばん必要なのは、ね。……
――愛する男がいる、っていうことだと。
あたし、思う」
この作品が書かれたのは1988年だから、もう15年近くの歳月が経過しているわけだ。子育ての代わりに歌作りに没頭している間に、年月はあっという間に流れ去った。多くの女性が宿命のように引き受けざるを得ない子育ての代わりに、中島みゆきは数知れぬ名曲を自分の子供のように産み落としていった。「あたしの暮らしにだって、なかなか捨てたもんではない幸福はある」と彼女は言う。
「歌作り」をしている最中の中島みゆきは、たぶん本当に幸せなのだろう。特に会心の出来栄えの作品を仕上げている時は。私のような者でも、論文書きやデータ解析に夢中になり、文字通り寝食を忘れて没頭している時、無上の至福感・充実感を感じることが出来る。そして子供に死なれたり、子育てで四苦八苦している友人たちの姿を見ると、ふとこう思うのだ。――結婚などしなくて本当によかった、と。………
だが次の瞬間、別の想いが胸をよぎることはないであろうか。これは果たして本当に自分が欲していた人生だろうか?、と。中島みゆきの初めての絵本『もっぷでやんす』のページをめくりながら、やはり私は淋しさに溢れた彼女の心象風景を見てしまうのだ。
中島みゆきの歌を聴くとき、彼女は普段どんな想いで毎日を過ごしているのか思いめぐらさざるを得ない。コンサートツアーや「夜会」の準備、リハーサルやオーディション等の目の回るような忙しさを縫って、歌作りに励んでいるのだろうか。「乾いたタオルから水を絞り出すように」(20年ほど前、朝日新聞の「新人国記・北海道編」で読んだ文章だ。正確な言い回しは忘れてしまったが)、苦しみの中から言葉と曲が紡ぎ出されていくのだろうか。そしてどうしようもなく人を好きになったり、ふと寂しさや人恋しさを感じたりする瞬間が訪れたりするのではないだろうか。
比較的生ま身の彼女の実生活を透視させると思われる作品を取り上げてみよう。
バスがとまった気配に気づき そっとまぶたをあけてみると
ここは山頂のサービスエリア 次の町まであと何百キロ
埃まみれの長距離トラックが鼻先ならべる闇の中
自販機のコーヒーは甘ったるいけど 暖まるのならそれでいい
どこまで行くの 何しているの
歌を歌っているんです
そうかい おいらは歌は知らねえな 演歌じゃねえんだろ そのなりじゃあな
香川 新潟 大阪 宮城 姫路 山口 袖ヶ浦
流れる星よ いつか最後にどこへたどりつこうというのだろうか
おいらはこれから北の国まで となりはこれから南まで
便りのないのが良い便り どこかで会うかもしれねえな
身体こわさずがんばってみなよ
たまには親にもTel.してやんな
吹く口笛はスプリングスティーン あれは演歌だと おっちゃんは信じてる
香川 新潟 大阪 宮城 姫路 山口 袖ヶ浦
流れる星よ いつか最後にどこへたどりつこうというのだろうか
―――「流星」