2012年3月29日木曜日

「中島みゆきの世界」


(1)子守歌的なるもの
  若年期から私には人生の根本命題だと信じてきた、ひとつの信念があった。それは、この世で一番好きな相手と結ばれて、子供を産み育て、背かれて年老いていくのが最上の人生だ、というものだった。そしてこれには、もしそれがかなえられなければ、他にどんな良いものを恵まれても人生そのものが無意味であり、生命曲線からの逸脱だという副命題が付随していた。長い年月、深く愛し合った夫婦は、互いの風貌や話し方や仕草までが似てくるという。私が若い頃から願っていたのは、まさしくそういう人生だった。そしてそれがもう不可能な年齢に私の人生は達している。何度となく味わった悲恋のあとで失意と孤独に打ちのめされているとき、傍らにいつも中島みゆきが佇んでくれていたような気がする。持って行き場のない悲� ��や絶望を癒し、慰撫する力が彼女の作品にはある。第2章で私はそれをオーストリアの精神医学者ゲルトルート・シュビングの言葉を借りて、「母性的なるもの(die Mutterlichkeit)」と呼んだ。それは危機や不幸に陥った存在に対し、捨て身の献身や察知や抱擁で相手を包み込む深い愛情である。これは中島みゆきの初期の作品からその底流に一貫して流れているものであるが、近年ますますその傾向を強めているように思われる。「わたしの子供になりなさい」や「心守歌」といった作品はアルバムのタイトルになるほどで、その典型である。それらは大人に向けた子守歌といってもいいだろう。
  随分昔になるが佐々木幹朗は、中原中也の作品の中に「子守歌的なるもの」を見出し、中也の作品を日本の昔話に特徴的に現れる「太母」(グレートマザー)の伝承として喝破したことがある(『中原中也』筑摩書房・近代日本詩人選16)。佐々木は中也の「悲しき朝」や「盲目の秋」、「サーカス」などの諸作品にそれを認め、日本近代詩の歴史の中での中也の独自性を位置づけたが、今その伝統は中島みゆきに引き継がれているのではないだろうか。中原中也の作品に「子守歌」の伝承を読み込むのは詩の読解の相当な修練を要するが、中島みゆきの作品の中なら、誰でも容易にそれを認めることができるだろう。

  涙を見せてはいけないと教えられたのね
   そんなことない そんなことない そばに誰がいるのか次第
   男には女より泣きたいことが多いから
   あなたが泣くときは わたしは空を見よう
   あなたが泣きやめば ふたりで空を見よう
   もう愛だとか恋だとかむずかしくいわないで
   わたしの子供になりなさい
   もう愛だとか恋だとかむずかしくいわないで
   わたしの子供になりなさい
   ―――「わたしの子供になりなさい」

 彼女は不特定多数の対象にこんな歌を唄っているのではなく、不幸の只中にある一人一人に向けて唄っているのだ。だがこんな歌を唄う中島みゆき自身は、果たして本当に幸せなのであろうか。無数の人々に勇気と慰藉を与えるよりは、たった一人の相手と結ばれることの方が重いのではないだろうか。愛する相手と結ばれなかったときに、彼女はどういう風に自分を慰め、言い聞かせてきたのだろうか。

  ジャスミン もう帰りましょう もとの1人に すべて諦めて
   ジャスミン もう帰りましょう もとの1人に すべて諦めて

  人が1人で生まれてくることは 1人きりで生きていくためなのよ
   1人きりで生まれて来たのだから1人でいるのが当たり前なのよ
   2人でなければ半人前だと 責める人も世の中にはいるけれど
   ジャスミンもう帰りましょう もとの1人に すべて諦めて
   ジャスミンもう帰りましょう もとの1人に すべて諦めて

  1人で働いて自分を養う一生
   THAT'S ALL それで終わり けっこうなことじゃないの
   誰とも関わらなければ 誰も傷つけない
   THE END それで終わり とても正しいことじゃないの
   ジャスミンもう帰りましょう 1人暮らしのあのアパートまで
   ジャスミンもう帰りましょう 1人暮らしのあのアパートまで
   ―――「一人で生まれて来たのだから」

 言われてみればそのとおりである。数年前大病を患った。抑鬱性神経症という病いで(本当は<病気>ではないのだが)、突然胃がセメントやコンクリートのように硬化して食事が喉を通らなくなり、文章を書いたり活字を読んだりすることが全く出来なくなった。たえず原因不明の疲労に苦しめられ、およそ1年半ほど生と死の淵を彷徨った。私の生涯で最大の危機だったかもしれない。全治してみると、自分が一皮剥けたような気がする。この世に自分ほど哀れで惨めな人間はいないと、30年間思い続けてきた。だが病気をして以来、不思議と不遇感に責め苛まれることはなくなった。中島みゆきのこの作品は、全面的に共感できるし、ひどく私を勇気づけてくれる。
  彼女の実人生の場合はどうだったのだろう。彼女の二冊目の小説集『泣かないで・女歌』の中に「ウィズアウト・ベイビー」という作品がある。彼女の最初の二冊の小説集にはどの作品にも「中島みゆき」という名前の主人公が登場して、彼女の実人生の一断面を垣間見させる。コンサート・ツアーの移動日に、ある街のホテルに投泊した「みゆき」のもとへ、彼女の学生時代の友人、フミ子から電話が入る。フミ子は学生時代、突然にインドに出かけ、そこで知り合った英国人と結婚している。ホテルのロビーまで迎えに来てくれたその旦那の案内で、「みゆき」は長屋の裏手にある彼女の自宅に行き、何年ぶりかの再会をする。フミ子には既に混血の赤ん坊がいる。「みゆき」はしばしの間フミ子一家の歓待を受ける。そこで描写され� ��フミ子の日常は、いささか所帯疲れしたものであり、おしめの取り替えやおっぱいをやったりする子育てに追われている。別れた後、フミ子の旦那にホテルまで送ってもらう間、主人公の「みゆき」は次のような想念にとらわれる。

  漂ってくる乳くさい匂いは、こういう暮らしよりも仕事の方を選び取ってきたあたし にとっては、チクリと心に染みる。
   遠い、手の届かない世界の幸福を示してくる。
   ――でも幸福は比較のしようがない。
   あたしの暮らしにだって、なかなか捨てたもんではない幸福はある。
   フミちゃんは、こっちの幸福の方を選び取った。
   それだけのことだ。(傍点は引用者)

 こう思う彼女にフミ子は、別れ際にこう言ったのだ。

  「でも女にとっては。
    いちばん必要なのは、ね。……
    ――愛する男がいる、っていうことだと。
    あたし、思う」

 この作品が書かれたのは1988年だから、もう15年近くの歳月が経過しているわけだ。子育ての代わりに歌作りに没頭している間に、年月はあっという間に流れ去った。多くの女性が宿命のように引き受けざるを得ない子育ての代わりに、中島みゆきは数知れぬ名曲を自分の子供のように産み落としていった。「あたしの暮らしにだって、なかなか捨てたもんではない幸福はある」と彼女は言う。
  「歌作り」をしている最中の中島みゆきは、たぶん本当に幸せなのだろう。特に会心の出来栄えの作品を仕上げている時は。私のような者でも、論文書きやデータ解析に夢中になり、文字通り寝食を忘れて没頭している時、無上の至福感・充実感を感じることが出来る。そして子供に死なれたり、子育てで四苦八苦している友人たちの姿を見ると、ふとこう思うのだ。――結婚などしなくて本当によかった、と。………
  だが次の瞬間、別の想いが胸をよぎることはないであろうか。これは果たして本当に自分が欲していた人生だろうか?、と。中島みゆきの初めての絵本『もっぷでやんす』のページをめくりながら、やはり私は淋しさに溢れた彼女の心象風景を見てしまうのだ。
  中島みゆきの歌を聴くとき、彼女は普段どんな想いで毎日を過ごしているのか思いめぐらさざるを得ない。コンサートツアーや「夜会」の準備、リハーサルやオーディション等の目の回るような忙しさを縫って、歌作りに励んでいるのだろうか。「乾いたタオルから水を絞り出すように」(20年ほど前、朝日新聞の「新人国記・北海道編」で読んだ文章だ。正確な言い回しは忘れてしまったが)、苦しみの中から言葉と曲が紡ぎ出されていくのだろうか。そしてどうしようもなく人を好きになったり、ふと寂しさや人恋しさを感じたりする瞬間が訪れたりするのではないだろうか。
  比較的生ま身の彼女の実生活を透視させると思われる作品を取り上げてみよう。

  バスがとまった気配に気づき そっとまぶたをあけてみると
   ここは山頂のサービスエリア 次の町まであと何百キロ
   埃まみれの長距離トラックが鼻先ならべる闇の中
   自販機のコーヒーは甘ったるいけど 暖まるのならそれでいい
   どこまで行くの 何しているの
   歌を歌っているんです
   そうかい おいらは歌は知らねえな 演歌じゃねえんだろ そのなりじゃあな
   香川 新潟 大阪 宮城 姫路 山口 袖ヶ浦
   流れる星よ いつか最後にどこへたどりつこうというのだろうか
   おいらはこれから北の国まで となりはこれから南まで
   便りのないのが良い便り どこかで会うかもしれねえな
   身体こわさずがんばってみなよ
   たまには親にもTel.してやんな
   吹く口笛はスプリングスティーン あれは演歌だと おっちゃんは信じてる
   香川 新潟 大阪 宮城 姫路 山口 袖ヶ浦
   流れる星よ いつか最後にどこへたどりつこうというのだろうか
   ―――「流星」


あなたの女性をどのように戻って取得するには?

 7音と8音のリズムが印象的だ。コンサートツアーの移動中に、実際にこのように名もなき長距離トラックの運転手との短い邂逅があったのかもしれない。(最初の小説集『女歌』の中に「23:00熊本発鹿児島行き急行バス」という作品があり、コンサートツアーの移動の様子が伺い知れて興味深い)。彼女が自己の生存と表現の根を置いているのは、いつもこのような社会の下隅に生きる人々だ。
  第3章で私は、彼女の<失恋>をテーマにした作品は一時期に集中していることを論じた。彼女のモチーフは即時的な<失恋>の悲しみから<愛>の不能やさまざまな<不幸>の様相へと広がっていったのだ。人間の不幸は<失恋>に尽きるものではない。死別や貧困や疾病など、この世の<不幸>は数限りない。豊かな社会においても不遇は存在し、総中流社会においても脱落組は存在する。落ちこぼれ、取り残され、排除される側の人間の抗議や怒りや悲しみを、中島みゆきは代弁し続けた。彼女が<失恋>の歌を余り歌わなくなった今も、人々からの圧倒的な人気や支持が衰えない由縁だ。彼女の数々の作品は、この世の全ての不幸な者たちへの「子守歌」なのだ。
  ところで幸せな人間は、不幸な人間の苦悩を本当に共有したり媒介したりすることは出来るのだろうか。出来はするまい。不幸のただ中にいる者だけが、他の不幸な人間の心情を理解出来る。幸せな歌うたいは、幸せな人々に対して自分の歌を唄い、それなりの共感を得る。それでいいのだ。だが不幸な人々に対しては、幸せな歌うたいは何の共感も感動も与えることは出来ない。中島みゆきが不幸な人々に感動を与えるのは、彼女自身が幸せではないからだ。この世にはまるで不幸になるために生まれてきたような人間がいる。中島みゆきはなぜ幸せになれないのか。その根拠を探求してみよう。

(2)「遠い、手の届かない世界の幸福」
  中島みゆきには、結婚して、平凡だが確実な幸せを手にしようという気持ちは最初からなかったのだろうか。昔、谷川俊太郎と行った対談(『中島みゆきミラクル・アイランド』所収「あたし以上に、あたしを好きな人」1980.10.23)で、「末は身を固めて可愛い赤ちゃんを産んでとか、そういうイメージはない?」という谷川の問いに対して、「あたし小さいときからね、はやくお嫁さんになりたいっていうような夢は、持ったことがないの」と、彼女はきっぱり答えている。それに続けて、彼女は次のような屈託のない発言をしている。

  たとえば、誰かがうんとあたしのことを思ってくれるとするでしょう。でもどんなに 思ってくれたとしても、それ以上にあたしを思う人は必ずいるわけ。それはあたし自身 なの。あたしをあたしは一番好きなの。すごく独占欲が強いの(笑)。

 額面通りに受け取ることは出来ない。もし彼女が真性のナルチストならば、これほどまで人を感動させる作品を次々に作れるはずがない。研ぎ澄まされたように鋭い感性の持ち主である彼女が、<家>を、あるいは<愛>を、倫理的な位相で抱え込まなかったはずがない。本当は「遠い、手の届かない世界の幸福」を焦がれることはなかったであろうか。そして学生時代の友人たちが次々と身を固めていくことに焦りはなかったであろうか。
  最初の小説集の中で述懐している次のような想念は、絶えず中島みゆきを襲ってきたものではないだろうか。

――男友達にせよ女友達にせよ、互いが独身同士のうちならば真夜中の電話も平気で かけられたけれど。一人二人と結婚し、たまには別れたというのもいたりするけれどそ ういうのに限ってまたすぐ次のと結婚するから、電話番号リストからまた一人、馴染み の名前が消える。こういうのを「売れ残りの実感」とでもいうのかしら。
真夜中でもかまわないから電話してよと誘われ、気になんかしないぞと意気込んでダ イヤルをしても、受話器の向こうで赤ん坊がミャアミャアと泣いて呼んでいるのが聞こ えたりしてはやはり、お互いの気がそれているのが伝わりあう。赤ん坊のせいにするま でもなく、相手の部屋に亭主なり女房なりもしくは愛人なり、とにかく同居人ができた と知った時からもう、突然に常識とやらが気にかかって時計を見てはダイヤルの途中で 受話器を置いてしまう。(『女歌』所収「もう一人のmiss M」)

  この文章が書かれたのは1986年のことである。ずっとこんな気持ちを抱いて中島みゆきは生きてきたのだろうか。歳をとるにつれてますます自分が取り残されていく焦りを感じなかったであろうか。淋しさは津波のように襲いかかってくるのではなかったか。
  創作活動において、ある一線を踏み越えれば、人並みの幸せを断念しなければならない結節点のようなものがあるのかもしれない。同じ年、14番目のアルバム『35.6C』を出した後、田家秀樹との対談で、中島みゆきは次のように語っている。

  アタシ、今まで町内会の隣のおばちゃんが、三井にお勤めの男の人といいお見合い話 持ってきても、いざという時には、まとまろうというところにいようとしたような気が するんですけどね。でもこういうの出しちゃうと、もうダメですね。三井にお勤めのム コというのは、見つかりませんね。もう、こういうものを出すと、見合いはあきらめま した(笑)。
  ――(『片想い』所収、田家秀樹「悲しみ歌うたい」'86/12)

 このアルバムには、「毒をんな」、「やまねこ」をはじめ、過激な言葉遣いやドラムを使った強烈なロック調で彩られた作品が多い。

  噂は案外当たっているかもしれない
   女の六感は当たっているかもしれない
   おひとよしの男だけがあたしに抱き盗られている
   子供の瞳が怯えている
   子犬のしっぽが見抜いている
   自信に満ちた男だけがあたしにまきあげられてる
   ――「毒をんな」

  女に生まれて喜んでくれたのは
   菓子屋とドレス屋と女衒と女たらし
……………………………………
ためにならぬあばずれ危険すぎるやまねこ
   ――「やまねこ」

 全てのエリート・ビジネスマンがそうであるというわけではないが、「三井にお勤めの男の人」にとっては、こうした表現は矯激すぎるのだろう。彼らの多くは<良妻賢母>的な女性しか婚姻の相手として選べない。だがアーチストとして活動しようとするまいと、中島みゆきがお人形のように従順な人妻で収まるはずがない。私には中島みゆきが、お見合いの釣り書きに書かれている家柄や財産や地位や学歴や、興信所を使って調べた素行を基準にして結婚相手を選ぶ男と結ばれるなど、最初からとうてい信じられないのである。そんなものに拘っている限り、一生涯<真実>というものには触れ得ないことは、彼女には自明であったはずだと思う。
  では中島みゆきは創作のボルテージを上げるために、ある覚悟を持って<人並み?>であることを断念したのだろうか。いや、そんなことを勘案するより彼女は、歌作りのためには世間体などにかまっていられなかったに違いない。だがアーチストとしての評価を得れば得るほど、「遠い、手の届かない世界の幸福」はますます遠ざかっていくのだった。
  ライフスタイルそのものが、夜中に作曲して明け方に眠り、夕方に起きるというのでは、家事・育児は無理である。しかしメードやベビーシッターを雇うだけのお金があってしかも包容力のある相手となら、歌作りと家庭を持つことは両立したはずである。どこまで本気かわからないが、彼女は次のような発言もしている。

 ――ここから先、なにか区切りのようなものは考えていますか?
  中島 うーん、なんでしょうかねえ。ある日突然、石油成金の玉の輿ということだって。
  ――うーん。
  中島 そしたら、金ピカのコンサートやろっと。でも、予定したってその通りにならな いもの。人生の設計が、今までその通りになった試しがないもの。幼稚園から先、ずっ と。アハハ。
  ――(『満月みゆき御殿』所収、前田祥丈との対談「「夜会」というコンサートのこれから」1999/2/15)

 本当だろうか? 今さらわざわざ「石油成金の玉の輿」にならなくても、最愛の相手と結婚すること以外、既に彼女はこの世で全てを手に入れたのではなかったか? 富も名声もステータスも………。思い通りの表現を完璧に実現する(欲しい音を得る)ためにいつでもニューヨークまでスタッフを引き連れて行けるし、コンサートや「夜会」のために最高レベルのミュージシャンたちを動員することも出来る。既に「金ピカのコンサート」は実現されているのではないのか? そして「石油成金の玉の輿」になっても、そんなところに幸せなどないことを、中島みゆき自身が最もよく熟知していたはずではなかったか。たぶん彼女は、対談やインタビューでは本音を吐露せず、対談相手やインタビュアーを煙に巻いてきたのではな� �だろうか。
  全てを手に入れても本当に<幸せ>にはなれない。襲いかかってくる淋しさを、歌作りに昇華させる以外にはない。次の作品のような感覚は打ち消しようもなく訪れきたに違いない。

  だれかあなたを待たせてる人がおありですか。
   さっきから見ているともなく見ている私を悪く思わないで下さい。
   そこから何が見えますかタバコの煙越し 窓の彼方
   マスターはあい変わらず何も話さない 自分のことも何も話さない
   夜の入り口はさみしくて 眠りにつくまでさみしくて
   人の気配のする暗がりに身を寄せたくなります
――「SINGLE BAR」

 そして『夜会Vol.6・シャングリラ』の中で歌われた次の作品は、中島みゆきの子育て願望、架空の子育て物語を表しているのではないのか。

  五月の風の中でおまえは生まれてきた
   小さな手をさし出して私に抱きついたよ
   何もない私は与える物もなくて
   この名をふたつに分けてつけた
   小さな美の名を

  父親もないおまえを喜んでくれたのは
   幼な友達ひとりだけ ほかには誰もいない
   夏のスコールの下 共にあやしてくれた
   彼女はどこへ嫁ぐのだろう 幸せ夢見てた


方法girsと浮気する

  きっと愛をみつけてよ
   本当の愛をみつけてよ
   愛しいおまえ
   ――「生きてゆくおまえ」

 人間の本当の幸せは、やはり好きな相手と一緒になり、子供を育てていく中にしか実現できないのか。だがもしかすると「遠い、手の届かない世界の幸福」そのものが虚構ではないのか。私たちが経験している現代の最大の変化は、これまでの結婚の形態と家族の形態の崩壊ではないだろうか。
  これまた随分古い話だが、芹沢俊介はエンゲルスの「単婚は私有財産制を契機に対偶婚から娼婦制と姦通(「不貞」)という制度を疎外することによって、確立された」という発言を援用して、「戦後の家族が、「男女の和合」の実現であるにもかかわらず、その解体の過程において、なぜ、性の敵対的関係を鋭く露出することになるのか、という疑問のこたえが、ここにある」と述べている(『戦後社会の性と家族』所収、同名の論文)。「資本制の再編の要請」に従って戦後家族が解体と縮小を余儀なくされたという芹沢の規定は今から思えば古ぼけた印象を与えるが、「性を生殖から切り離し、独立した生活として婚姻の目的を意識化した」ことに戦後家族の危機を見る芹沢の眼力は、今でも有効である。男女ともが恣意性の放恣に� ��って、離婚や家族崩壊を激増させているのだ。一見絵に描いたように幸せにみえる家族やカップルも、常に解体の危機を内包しているのである。
  次の作品には、こうした社会状況が照射されている。

  離婚の数では日本一だってさ 大きな声じゃ言えないけどね
   しかも女から口火を切ってひとりぼっちの道を選ぶよ
   北の国の女は耐えないからね 我慢強いのはむしろ南の女さ
  ※待っても春など来るもんか
   見捨てて歩き出すのが習わしさ
   北の国の女にゃ気をつけな
  ※(繰り返し)
   ――「北の国の習い」

 350曲近い中島みゆきの歌の中ではただひとつ演歌調の作品である。中島みゆきはこの曲を気に入ってるとみえて、『夜会Vol.2』でも歌っている。運命への逆襲と言ってもいい。非情なまでに孤絶に耐えて、たった一人で生きていくという決意が込められている。彼女はここでなぜ自分が結婚が不可能であったかを語りたかったに違いない。彼女の場合、結婚、つまり自己を軸とする<家>の構成を<断念>することから、現実と倫理的に交叉しあう唯一の磁場は、<自立>しつつ、限りなく<他者>を愛するという座標軸を設定することよりほかはなかったのだ。
  ここでそもそも人間にとって幸福とは何か、果たして人間は幸福に生きていくことが可能なのかを、根本的に考えてみよう。
  中島義道は『不幸論』の中で、人間が幸福になる条件を以下のように4つ挙げている。
  (一)自分の特定の欲望がかなえられていること。
  (二)その欲望が自分の一般的信念にかなっていること。
  (三)その欲望が世間から承認されていること。
  (四)その欲望の実現に関して、他人を不幸に陥れない(傷つけない、苦しめない)こと。
  彼はこの4つのいずれが欠けても人間は幸福になり得ないと主張する。恋愛の初期の幸福感も彼に言わせれば(一)の条件のみが肥大化し、精神の軽い麻痺のため、ほかの条件が正確に把握出来なくなっていることによってもたらされるものだ。そして人間は生きていく限り膨大な数の他人を犠牲にせざるを得ないのだから(四)をクリアーすることが出来ず、その因果関係の網の目がよく見えないため我々はさしあたり幸福感に浸っていられるが、真に幸福ではあり得ない、と彼は語る。中島自身は、「厳密な思考を停止して幸福を手に入れるか、厳密な思考を維持して不幸にとどまるか」(傍点は引用者)という選択を自分に課し、後者を選んだのだと陳述する。彼によれば、この世の誰も幸福たり得ず、存在するのは「幸福であると� ��う幻覚」だけである。
  考えてみれば(四)は、私(たち)が若年期、他者を倫理的に恫喝するためによく用いた論法である。「貴様が安穏として生きている今この瞬間にも、ベトナムでは何の罪もない赤ん坊が、ナパーム弾で焼き殺されているんだぞ! 何もしないことは、それに手を貸すことになるのだ」という具合に。こうした性急で過剰な倫理性は、いつまでも有効というわけにはいかなかった。幾たびか硝煙と炎と水けむりをくぐった末に、私(たち)は悟ったのだ、人間は自ら体験出来ぬ未来の理想社会や、一面識もない赤の他人のために、自分の命を投げだすことは到底出来はしない、と。苦い自省とともに噛みしめたのだ、自分が一杯のお茶を飲めるのであれば、全世界が滅びようと知ったことか、と。
  幸福である人間(中島に言わせれば、自分を幸福であると錯覚している人間)は、自分がなぜこれほど幸福であるのかを問うたりはしない。不幸な人間のみが、自分はなぜこれほど不幸であるかを問い直すのだ。そして幸福な人間は、この世に不幸な人間がいることを忘れたがる。しかしこのことは、果たして咎められるべきことだろうか。普通に泣いたり笑ったりして生きている市井の庶民は(知識人もそうだが)、四六時中「厳密な思考」を自分に課して生きているわけではない。皆、ささやかだが確実な幸福を手に入れようと必死なのだ。そして手に入れた幸福を失うまいとすることで精一杯なのだ。それを手にした人間に「君は本当は幸せではない。幸せであると錯覚しているだけで、実は不幸なのだ」と囁くことは、あまりに傲� ��ではないだろうか。そしてそれを手にすることが出来なかった人間に、「君だけでなくこの世の全ての人間は不幸なのだ」と説いても、大して気休めになるとも思えない。
  中島みゆきは、他人の痛みや悲しみを黙殺するには過敏すぎた。自分の「遠い、手の届かない世界の幸福」を手に入れるには、この世のあらゆる不幸に対して鋭敏すぎたのである。

(3)空無と欠損
  吉本隆明はしばしば次のような発言を繰り返している。

  人間だれしも、一生のうちに一人だけはときめいたり、心から好きになったという異 性、同性でもいいのかもしれないけれど、かならず出会うと思っています。
  ――(たとえば『僕ならこう考える』所収「男と女の出会いについて断言できること」)

 中島みゆきが吉本のこうした発言を知っていたかどうかはわからないが、次の作品はこの吉本の断言に対応している。

  いちばん好きな人と結ばれる
   幸せ者は 希なことね
   いちばん好きな人は いつだって
   遠く見守るだけなのね

  私に良かれと 父母が
   知らない男を連れてくる
   どうにでもなれと うなずいて
   私は自分を傷つける

  おとぎばなしを聞かせてよ
   恋はかなうと聞かせてよ
   ――「おとぎばなし」

 一生のうち何度か恋をしても、本当に好きな相手はただ一人だけなのか。いちばん好きな人と結ばれるという彼女の願いは、結局成就しなかったのか。そうではあるまい。片想いや失恋ばかりしているように見えながら、中島みゆきにもその生涯の中で、深く愛し合い、全てを許し合った相手が何人かいたかもしれない。互いの<愛>を確証できた期間があったのかもしれない。しかし互いに愛し合ったからといって、それが必ずしもハッピーエンドに着地できるわけではない。<家族>を作るに至らないケースもある。相思相愛の仲に陥っても、再び不幸を招き寄せることになることもあるのだ。次の二つの作品は、中島みゆき自身の成熟の表情を物語っている。

  みつめあうことだけが大切なことじゃないと
   あなたは首すじから私の腕をほどく
   むさぼりあった季節は過ぎて
   信じ合える時が来たんだと
   あなただけが大人になったように私を諭す
  ※ふたつの炎が同じ速さで燃えはしない
   いつまでひとつが哀しく燃え続けていても

  ほどける糸のように今 愛が終わっていく
   憎み合うこともなくただ愛が終わっていく
   不思議だった女が消えて
   届かなかった女が消えて
   すがるだけの追わなくても手に入る女になった
※(繰り返し)
※(繰り返し)
――「ふたつの炎」

「このままでいいじゃないか」あなたの煙草
   切り札を躱されて 私の煙草
   唇で溶けあって そこからMidnight
こぼれるのはため息ばかりの 遠雷の夜
答えなど求めないそんな女はいないわ
あぁ今夜もほだされて舞い戻る腕の中
せつなく乱されて遠ざかる雨の音
――「遠雷」

  もうこの時点で<愛>は終わっている。抱き合っているのに、男の心はどうしようもなく女から遠く離れてしまっている。夢中で愛し合った時は二度と帰ってこない。二人は結婚などしない(出来ない)し、既に結婚していても別れる他はない。中島みゆきなら相手を全力で愛することを出来たに違いない。しかし相手は全力で応答せず、逡巡するか、あるいは逃避したのだ。これは折り合いの付け方などではなく、若年期から中島みゆきが抱え込んでいる空無が、別離を呼び寄せているのではないのか。どんなに強い愛や優しさでも溶解できぬ淋しさの前に、男は怯んだのではないだろうか。それは男女のいかなる和合によっても解決できぬ欠損ではなかったか。どちらの作品も1990年のものである。男女関係のこのような齟齬はど� ��から発しているのだろうか。
  全てはファーストアルバムに凝集していた、と今にして思う。その中に次のような作品がある。

  もう長いこと あたしは ひとり遊び
   独楽を回したり 鞠をついたりして
   日も暮れるころ あたしは追いかけるよ
   独楽を抱えた 影のあとをね
  ※鬼さんこちら 手の鳴るほうへ
   鬼さんこちら 手の鳴るほうへ
   鬼さんこちら 手の鳴るほうへ
   鬼さんこちら 手の鳴るほうへ
   あたしの影を 追いかけて
   あたしの影を 追いかけてよ……


私は詩をどのように感じる

  もう長い影 果てない ひとり遊び
   声は 自分の 泣き声ばかり
   日も暮れ果てて あたしは追いかけるよ
   影踏み鬼は 悲しい遊び
  ※(繰り返し)
   ――「ひとり遊び」

 これはこの世からただ一人取り残された者の声だ。いや、この世から異界へただ一人で出て行った者の声だ。この歌の主人公は、自分の影を追いかけて何時間も一人で遊んでいる。なぜこんなことをしているのか誰にも理解できず、誰も彼女の気持ちの中に入っていけない。夕闇の迫る頃、うら若い女性がひとりで何時間も自分の影を追いかける遊びに耽っている光景は異様とも言える。ここには他者との恋愛や友情など忍び込む余地はなく、深い断念と諦念が滲み出ている。中島みゆきは若くして、人間の生に付き纏う根源的な孤独を噛みしめざるを得なかったのだ。
  湧き出る泉のように豊かに人を愛する心を持ちながら、彼女はすでにデビューの時から生きながら自分を埋葬してしまったのだ。こうした持って行き場のない淋しさを表した作品は、どのアルバムの中にも一曲か二曲は収められている。『みんな去ってしまった』では「冬を待つ季節」、『あ・り・が・と・う』では「まつりばやし」と「時は流れて」、『愛していると云ってくれ』では「海鳴り」………。これらの作品については、以前に論じたことがあるので、ここでは繰り返さない。これらは若年にして早熟すぎた者の不幸を示しているのではないのか。他人が窺い知れぬ胸の内に深い欠損を抱え込んでいたからこそ、いったん誰かを愛すれば全力を挙げたものにならざるを得なかったのではないのか。
  また同じアルバムの中の次の作品は、いかにも「太母」(グレートマザー)としての今日の彼女を彷彿とさせる。

  今日も だれか 哀れな男が
   坂を ころげ落ちる
   あたしは すぐ 迎えにでかける
   花束を 抱いて
     おまえがこんなにやさしくすると
     いつまでたっても 帰れない
   遠いふるさとは おちぶれた男の名を
   呼んでいないのが ここからは見える
   ――「あぶな坂」

 アルバム全体としてみれば、まだ若々しく初々しい、今聴くと幾分の幼ささえ漂わせる作品の多い中で、この2曲だけはその成熟性において突出している。自らが孤独の極に居ながら、この世から転落した者たちを、彼女は花束を抱いて迎えに行くのだ。先の「ひとり遊び」と合わせて聴くと、自らは周囲からは理解できぬ深い孤独を抱え込みながら、いつも不幸な者の傍らに居ようとする中島みゆきの志向が、この2つの作品の中に既に萌芽として表明されている。
  このことによって、彼女は戦後日本社会への根本的な否認を申し立てているのだ。なぜなら戦後日本社会とは、勝者、生者、成功者の論理で出来上がっているのであり、敗者、死者、失敗者を排除することで存立しているからだ。戦後日本社会に対してこれほど強い否認を突きつけ続けたのは、<全共闘>でもなく、新左翼諸派でもなく、中島みゆきただ一人だ。前にも書いたが(第4章「現代詩の中の中島みゆき」)、これは『荒地』の理念である。自らの表現の出発点から中島みゆきは、戦後日本社会の現実の外に立つという、『荒地』との共通の感性を自己の生の方法から無意識のうちに編み出したのだ。アーチストとしての大成功とは裏腹に、彼女は心の中に癒しがたい空無と欠損を抱え込んでいたのだ。
  中島みゆきと『荒地』の両者に、語法や作風のうえでの共通性があると言っているのではない。戦後日本社会への非和解生において、中島みゆきは『荒地』の精神を引き継いでいるのだ。たとえば

  今より未来のほうが きっと良くなってゆくと
   教えられたから ただ待っている
   星はまたたいて笑う 星はころがって笑う 今夜 月のかげに入る

  だれかが耳打ちしている だれかが誘いをかけている
   あなたも幸せになりたいでしょうと
   だれかがあなたの手をとって だれかがあなたの目を閉じて
   未来はバラ色ですと言う

  わかってる 未来はまだ遙か遠くて届くまでに
   まだ何千年もかかると
   僕は僕に手紙を書く
   僕に宛てて手紙を書く
   ――「バラ色の未来」

は、鮎川信夫の有名な「御機嫌よう!/僕らはもう会うこともないだろう/生きているにしても 倒れているにしても/僕らの行手は暗いのだ」(「アメリカ」)というフレーズを思い起こさせないだろうか。
  また次の2つの作品を読み較べてみるとよい。前のものは中島みゆきのものであり、後のものは鮎川信夫のものである。

  だれも覚えていないあの桟橋に
   まだ灯りが点っていた頃のこと
   だれも覚えていないあの桟橋で
   いつもかくれて逢っていた二人のこと
   何もない二人は与えあえる物もなく
   何もない二人は夢の話だけをした
   もうあの桟橋に灯りは点らない
   ただ鉄条網が寒く光るだけ
   だれも覚えていないあの桟橋は
   きれいなビルになるらしい
   ――「もう桟橋に灯りは点らない」

  あの
   本屋は
   もうない

  ぼくは言おう
   ぬすんだ本の味は
   盗んだ梨より甘かったと……

  あれから
   もう二十年たつ
   あの本屋は洋裁店になった

  いまさら
   戦争を呪うべきか?

  あの罪は甘かったが
   この涙は苦い

  大ヴィヨンには
   あいすまぬことであった
   「虐げられし
   人々」に光りあれ!
   ――「この涙は苦い」

 いずれもかつて自分に深い関わりがあった場所が、新しい場へと置き換わることの感慨を述べている。前者には密かな逢い引きの思い出、後者には戦争体験が影を落としている。戦後日本社会の時間の流れは、ノスタルジアを無慈悲に解体し、風景を変えていく。どちらの作品も新しい時代になじめない疎外感を表している。中島みゆきが鮎川信夫や『荒地』の同人たちの作品を読んだことがあるかどうかはわからない。だが容易に時代に適応出来ぬ冷眼を有していることで、両者は生への異和と社会への異議を共有しているのだ。戦争を生き残った『荒地』の同人たちは「戦前において既に戦後的」であった。戦後に生を受けて廃墟を知らぬ中島みゆきは、「戦後において徹底的に反戦後的」である。おそらく若年期から(いやも� �と遡って幼年期から)、中島みゆきにとって生の不条理は抜きがたく心に影を落としていたに違いない。
  父親の経営する産婦人科医院の受付けや事務の手伝いをしながら、彼女は間引きされる赤ん坊の一瞬の泣き声を聞くことはなかったか。誰からも祝福されずにこの世に生まれてくる者の悲哀を目撃したことはなかったか。「この世で一番醜いのは人の心、そして、この世で一番美しいのも人の心です」(高校卒業時の寄せ書き)と痛感する生のさまざまな視えざる惨劇や事件に立ち会うことがあったのではないのか。
  最近冬の北海道を訪問した。夏に何度か来たときとは全然違い、そこは風景の輪郭を剥ぎ取った白と黒の単色の世界だった。中島みゆきが幼年期を過ごした岩内の赤灯台のある桟橋や、思春期を過ごした帯広の実家のあった空き地に、私はたった一人で何時間も立ち過ごしていた。今更こんな所を訪れてどうするのだ、もう20年以上も前に彼女は北海道を去ったのに、といくら自分に言い聞かせても、名伏しがたい魔力がそれらの場所へと私を惹きつけるのだった。昼間でも気温が氷点下を下回り、地の底から立ち昇ってくるかのような地吹雪の中、立っていることも出来ない横殴りの強風が吹き荒れていた。1年の半分以上が雪と氷に閉ざされているこの北の大地にも、黙々と生き、さまざまな喜怒哀楽を感じながら生活している無数� ��人々がいる。岩内の小さな赤灯台を見ながら、そして帯広の自宅で踏み切りの警笛を聞きながら、幼く、若かった中島みゆきは、一体何を考えていたのだろうか。


(4)終章「地上の星」をめぐって
  それにしても中島みゆきの創造力・量産力は驚くべきものだ。30年間途切れることなく、まるで憑かれたように歌作りを持続してきた。70年代「わかれうた」、80年代「悪女」、90年代「空と君のあいだに」でいずれもヒットチャートNo.1を獲得した。3世代連続でトップの座を占めたのは彼女だけだ。しかも言葉も曲も年々レベルアップされてくるのだ。彼女は一刻たりとも自足することを知らない。ちょうど吉本隆明が、私が読むスピードよりも速く、次々と本を出し続けるのにも似ている。
  私はといえば、過去の中島みゆきの抜け殻と面影を追い求めているだけだ。帯広や札幌の街を夢遊病者のように彷徨い歩き、彼女の実家のあった空き地、柏葉高校(2年前に校舎が建て替えられ、往時の面影はもはやない)で彼女が初めて公衆の面前で歌を唄った体育館、藤女子大学のキャンパスや寮を何度訪れたことだろう。200本近い「オールナイト・ニッポン」の録音テープを何度繰り返し聞いたことだろう。『夜会』のチケットが何度応募しても手に入らないため、1年後に発売されるビデオを何度見たことだろう。
  現時点での最新アルバム『おとぎばなし(Fairy Ring)』を聴いた。さだまさしとの美しいデュエット「あの人に似ている」は、15年以上も前の自分の<裏切り>を想い起こさせて、心を震えおののかせた。「安寿子の靴」、「愛される花 愛されぬ花」、「海よ」には懐かしさで胸が焼き尽くされる想いがした。あらためて自分がどれほど切実に中島みゆきという存在を必要としているか、骨身に染みて思い知った。
  NHKの『プロジェクトX~挑戦者たち』の主題歌・エンディング曲「地上の星/ヘッドライト・テールライト」がオリコンのチャートインを130週、更新中だ。この原稿を書いている2003年1月18日現在、遂にトップに躍り出た。もともとこの番組のディレクターが中島みゆきに主題歌を依頼したのは、「命の別名」を聴いて感動し、曲作りにあたっての注文を、「無名の人々の光を、歌にしてください」と頼んだことがきっかけだった(『Music City』2000年4月号)。そしてこの曲の聴き手に対する中島みゆきのメッセージは、「番組に登場する、実在の方々の人生に尊敬を込めて、制作スタッフの情熱に少しでも添うことができればと願いながらこの曲を書きました」というものだった。
  2002年大晦日の「紅白歌合戦」で、1978年のフジテレビ系「夜のヒットスタジオ」以来実に24年ぶりにテレビに出演し、「地上の星」を歌った中島みゆきは、彼女のファンの熱愛の対象のみならず、ある種の全国民的大スターになったかのような感がある。スーパー・マーケットでもスイミングクラブでも喫茶店でもレストランでも、ひっきりなしにこの曲が流れている。まるで国を挙げてみゆき熱に魘されているかのようだ。インターネットでファンたちに宛てたメッセージでも、1月16日のNHK「ニュース・10」の中島みゆき特集の企画での挨拶(音声のみ)においても、彼女は素朴かつ謙虚にこのことを悦び、自分のCDを買ってくれた人々に感謝している。しかし本当は、自分がこれほど偶像視されることに、戸� ��いと困惑を感じているのではないだろうか。彼女に上昇志向がなかったと言えば、嘘になるだろう。だがスーパースターになることは、彼女の表現活動に付随した結果的要因であり、そんなものの空虚さは百も承知だったに違いない。彼女は世俗的な名声を追うよりも、自分の表現を全うし、この世の一人一人に自分の声を届かせることを祈念していただけだ。
  折しも1月14日放映の『プロジェクトX』はペルーの日本大使館人質事件を取り扱ったものだった。13人の日本人ビジネスマンたちが、127日間の極限状況を耐え抜いていった勇気や、夫や父の救出を願う夫婦愛、家族愛が取材されていた。私は何とも言えぬ違和感や疎外感を感じた。大使館から人質が無事解放されたこと自体、何の異議もない。当人たちにもその家族にも、何一つ罪はない。むしろ突然降りかかってきた災難に、自分ならば果たしてこのように沈着さや忍耐心を持って耐えられるだろうかと自問した。だが人質救出の影に、銃撃戦で死亡した敵・味方の無名の戦士たちがいたことを、この番組は一言も取り上げなかった。ただ「ペルー人人質の一人が死亡した」と言及しただけだ。私はかつて「「命の別名」論~無 名性と栄光」(『ビズライト』第2号)という一文で、「4.2.3.」(4月23日のこと。人質救出のための銃撃戦が行われた日)という作品の中で、見知らぬ日本人人質の救出を熱病のように喜びながら、蟻のように真っ黒に煤けながら声もなく斃れた兵士を一顧だにしないこの国とマスコミの報道のあり方に、中島みゆきが違和と畏怖を唱えていることを述べたことがある。その時の報道に輪をかけて酷薄なドキュメンタリー番組の主題歌に自分が作った作品が使われることは、何という皮肉であり、逆説であろうか。そう言えば、名もなき人々の隠された功績を扱っていると称するこの番組に登場するのは、たとえ<無名>ではあっても、ことごとく世間に(少なくとも自分の周辺の人々には)自らのビジネスやプロジェクトの� ��義と成果を認知させた、人生の成功者たちばかりだ。中島みゆきが本当に光を当てようとしているのは、社会の最も底辺に棲み、世の中から何の功績も認められず、失意のうちに声もなく死んでいく人々だ。この日本社会から徹底して拒絶され、排除されてきた者たちだ。
  「狼になりたい」のベイビーフェイスの若者たち、「ファイト!」に登場する、中卒ゆえに仕事をもらえなかった少女、「あたいの夏休み」の付け焼刃レディたち、「シーサイド・コーポラス」に住み着いているいじめっ小僧、「忘れてはいけない」で許さないと叫びながらも、車輪に踏み砕かれる<野良犬>の声………。
  彼ら、彼女らの一人一人は、皆自分の悔しさや怒りや悲しみを表現するすべもなく、声もなくひっそりと生きている。そしてこの世から何の存在意義も認められず、声もなく死んでいくことになる。中島みゆきは心に深い痛手を負った彼ら、彼女らの全てに成り代わって、その名もなく声もない人生を代弁しようとしているのだ。(彼女の3冊目の小説集『この空を飛べたら』は、校則でがんじがらめに縛りつけられている<不良>高校生たち、上役から酷使されながら口惜しさを噛み殺してスーパーのアルバイトを続けている少女、堕胎を繰り返し、身寄りもなく実際の年齢よりも老け込んだ女乞食など、社会から排除され、地を這うように、そしてしたたかに生きている人々の呻きに彩られている。特に「ポケットの白鳥」は感動的で� ��り、文学作品としてのレベルも非常に高いと思う)。
  ここまで来て、私たちはようやくなぜ中島みゆきが<非婚>生活を続けているのかという理由を明らかに出来る。結婚しないのは、不遇を極限まで貫くことによって、絶えず不幸な人々の側に身を置くための方法だったのだ。そのことによって、彼女は自己が本来的に属するこの生活者大衆のあり得べき動向に倫理的に馴致しようと試みたのだ。もしかすると彼女は、『夜会Vol.
7・2/2』のヒロイン上田莉花のように、幸せになんかなってはいけないという想いを強迫観念やトラウマのように抱え込んでいるのかもしれない。心ある中島みゆきファンなら、皆彼女が幸せになってくれることを心底から祈っているはずだ。だがそれでいて一方では、誰も彼もが死ぬほど恐れているに違いない、彼女が幸せになり、自分とは別世界の存在になってしまうことを。事実としてもし中島みゆきが本当に幸せになってしまえば、それはもはや中島みゆきではなくなってしまうのだ。どうあっても幸せになることは、彼女には許されないのだ。実らぬ<愛>を通路として、彼女はこの世のあらゆる不幸に通底していこうと試みたのだ。苦悩のどん底に突き落とされることによって� ��そ、人間の心のさまざまな襞、魂の綾や人情の機微、他人のちょっとした親切のありがたさが身に染みて見えてくる。もし幸せであったなら一生わからなかったであろう、生の<真実>に触れ得るのだ。不幸に徹することによって、自らの生の豊饒を得るという逆説を中島みゆきは生き抜いてきたのだ。
  だがこのことは、何たる悲惨であることか。芸能界のスーパースターにとどまるよりも、好きな相手と結ばれて家庭を持つことの方が、幸せなのに決まっている。しかし中島みゆきはあえて<定型>をはみ出すことによって、この世の一切の不幸を一身に引き受けたのだ。自分の実人生を葬り去る代償として、彼女は生の<真実>に触れることを求め続けたのだ。
  愛する相手との別れのつらさ、耐え難さを癒してくれたのは中島みゆきであった。そしてその孤絶にいかに耐えていくべきか、不幸の只中においてもいかに人を愛すべきかを身をもって示してくれたのも中島みゆきであった。中島みゆきという存在を知り、彼女の作品の数々に遭り会えたことだけで、私の人生は無意味ではなかったと断言出来る。そして彼女のような人間がこの世に存在するだけでも、私は生きていける。彼女の歌が多くの人々を感動させるのは、暗い行く手が自明であるにもかかわらず、なお<愛>の可能性を信じることに賭ける、人間への強い信頼感に裏打ちされているからである。
  ずたずたに傷つき、失意と不幸の渦中にいる人間一人一人の傍らに佇んで、彼あるいは彼女の一人一人を癒すために、敢えて中島みゆきは<非婚>というライフスタイルを選び取っているのだ。まるでこの世に不幸な人間がたとえ一人でもいるかぎり、自分自身も決して幸せにはならないことを固く決意しているかのようだ。
  だとするならば、私が中島みゆきに対して為すべき応答はただ一つだ。彼女があくまで幸せになることなく不幸にとどまり続ける限り、私自身も決して幸せになどなろうとするまい、と。
  これは決して私の痩せ我慢ではない。孤独や不幸であることも、またいいではないかと今私は思う。もし幸福な人生を過ごしていれば、私は他人の痛みに全く無自覚なまま一生を終えたかもしれない。孤独や不幸もまた、それなりの味わいがあることを私は悟ったのだ。
  先述の中島義道は『孤独について』の中で次のように述べている。

  今の状態を百パーセント肯定しなさい。あなたの孤独は、あなた自身が選びとったも のだということを認めなさい。そしてその(表面的な)不幸を利用し尽くしなさい。

 疾病に苦しんでいた間、どんな薬を服用しても、どんな医者にかかっても、病状は好転しなかった。「森田療法」という東洋的医療に巡り会ったとき、ようやく病気は治った。約2ヶ月間、禅僧のような<修行>をしながら、人為的に病気を治そうとせず、あるがままの自分を肯定し、病状に全面降伏することによって、気づかぬまま病は癒えたのだ。森田療法の「あるがまま」という神髄と、この中島の言葉は何と似ていることか。彼の自伝的記述を読めば、若年期に彼が舐めた人生の辛酸から引き起こされた症状の数々は、あらゆる意味で「神経症」的である。彼は森田療法など知らなかったであろうが、現在の彼の心境は森田療法の全治の境位に通ずるものがある。
  ドストエフスキーの『地下室の手記』の主人公に倣って私も言い放とう、不幸や孤独は快楽である、と。本稿の冒頭のテーゼは、いかにしても疑い得ず、転倒不可能なものに思われた。50代の半ばになって、私もようやくその呪縛から解き離れつつある。ましてや中島みゆきという魂の最強の共闘相手がいるならば、決して不幸を忌避せず、彼女と一緒にこの道をどこまでも突き詰めてみようと思う。

                  2003/2/17

 



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